はじめまして。藤井です。

こんにちは。藤井設計の藤井耕市です。水戸市姫子にある小学校のすぐ隣に構えた事務所で、毎日子どもたちの元気な声を聞きながら建築設計の仕事をしています。
 私の設計の基本は、木造建築です。設計をする際には、いつも“数寄”の精神をたいせつにしています。
 “数寄”とは、数寄屋の数寄と同じで、茶道や生け花など風流の道を好むことを指します。
 茶道や生け花などという言葉を聞くと、日本の伝統作法にのっとった少し堅苦しいイメージを抱かれる方もいるかもしれませんが、“数寄”とはもともと“好き”の意味ですから、数寄の心はじつはとても自由です。
 実際、お茶室のつくりかたを少し知れば、そのあり方がどれほど自在であるかがすぐにわかります。千利休をはじめお茶を世に広めた方々は、どんなに頭の柔らかい方だったのだろうと今でも驚いてしまうほどです。使う人が使いやすく、心地よいように、自由に—それが数寄の心です。
 私は、その数寄の心で施主の方々と向き合い、素材を大切に生かした設計を心がけています。
 このページでは、そんな私、藤井耕市の、建築に対するちょっとした考えや想いをお客さまに知っていただくため、木についてのこと、私の師匠たちのこと、お客さまとのエピソードなども交えて語ってみました。藤井の小話を気楽に楽しんでいただければ幸いです。

藤井社長写真

木は生きているから、変化する。

木の生命力をいただくこと

私は木造を設計の基本としていますので、たくさんの木材に触れます。そのたびに、木は生きている、木の生命力をいただいている、という思いを新たにします。
 木は伐り出してからも状態を変化させます。湿気が高いと伸びて、乾燥すると縮む。科学的に″生きている〟状態かどうかは別として、その様子は″生きている〟としか表現しようがありません。木の良さを享受するということは、木が変化するという事実を受け入れるということです。
 ですから私が住宅をつくるとき、その当たり前のことをまずお客さまと十分に共有します。「この木はこんなふうに変化します。曲がることもあるし、割れることもあるかもしれません」と。
 もちろん、プロとして使用する木材の特性は熟知していますから、安心できない使い方は絶対にしません。その木の持つ特性を十分に見極めて使います。

建具・家具も必ず木でつくる

よく、藤井設計の手掛ける家は、内部にもたくさん木を使うといわれますが、それは私が住宅を設計する際、次の3つにこだわっているからかもしれません。
 まず、つねに体に触れる「床」には無垢材を使う。そして、「玄関の扉」も(お客さまの反対がない限り)木でつくります。加えて、「建具と家具」も基本的にはすべて木でつくります(藤井設計では建具と家具は買うものではなく、つくるのが当り前と考えています。窓だけは、気密性などからアルミサッシを使わざるをえない場合が多いですが)。
 そうして完成した木の良さを存分に取り入れた家。十分な調湿機能を持った、“生きている”木に囲まれた家での暮らし。それは、四季を通じて、人の体にも心にも、ほかにはない心地よさをもたらしてくれるのです。

藤井設計の事務所に今も保管してある「美和工芸ふれあいセンター」建築時の桧の端材。

数寄を教えてくれた師匠のこと。

芸術家タイプのハンサムな建築家

20代のはじめ、私は水戸の江橋建築設計事務所で設計の修行をしました。所長の江橋章は、ちょっと俳優の山崎努にも似た、芸術家タイプのハンサムな男でした。
 腕のいい大工を父に持ち、自身も京都の設計事務所に勤めて数寄の知識を高めた人で、当時、茨城県の木造建築では1、2を争う技術とセンスを持ち(少なくとも弟子の私はそう確信していました)、県が各市町村のために作成した木造公営住宅の「標準設計」も任されていました。
 この「標準設計」は非常に需要があり、現在の常陸大宮市にあたる当時の緒川村、美和村、山方町、御前山村などで採用され、私はその担当となって毎年県北を奔走していました。今、藤井設計があるのは、すべてそのときに得た人間関係のお陰といっても過言ではありません。

今も私のまんなかにあるもの

江橋所長こそが、私に先入観にとらわれない数寄の精神を教えてくれた人です。彼から学んだ固定観念を持たない“柔軟な発想”、部材をわずか1ミリ細くすることで得られる“洗練”、空間を5センチ広げることで実現する“ヒューマンスケール”(人間の感覚や動きにあった使いやすさ)。これらは今も私の設計のまんなかにあります。
 勤めて10年が経ち、事務所が美和村の大きな仕事を手掛けていたとき、「この仕事が終わったら独立したい」と、思い切って伝えました。所長は笑顔で承諾してくれ、本音で話をしてくれたことをよく覚えています。そのときに手渡されたのが、この「床の間」の本です。
 その後、所長が病に倒れ、2年後に52歳で亡くなり、残務整理などもあって、私は予定より3年遅れて独立しました。
 「生きていたらいろいろなことを相談できるのになぁ」と、今でも折りにつけ思い出す、私の建築の師匠です。

師匠の江橋章が私にくれた「床の間」の本。多様で洗練された床の間の例が数多く収められている。

菊池さんの工房にて茨城県建築士会の「いばらき木造塾」参加メンバーたちと。中央前列の青いシャツが菊池さん。

大工職人の菊池さんと「木造塾」。

茨城県建築士会主催の「木造塾」

江橋所長のお父さんが腕のいい大工職人であったことは先にも話しましたが、そのお父さんの一番弟子だったのが、大子町の大工職人で、一級建築士でもある菊池均さん。江橋所長の亡きあと、私が心の師匠と仰いでいる存在です。
   2014年からは、茨城県建築士会の柴和伸会長の命を受け、「いばらき木造塾」という1年単位の実習講座を、不肖の私が塾長を務め、菊池さんやほかのスタッフの力を借りて進めています。とくに若い世代の建築士にとって、日本の伝統建築の基礎知識と技術を身につけ、住みよい家づくりを一から学ぶ貴重な場となっています。
 菊池さんは自身の作業場を実習会場として提供し、技術的な実習指導を行っています。一方、座学では、建築家の吉田桂二氏に師事した松本昌義先生を講師に迎え、伝統工法にのっとった構造と間取りなどを徹底的に教えていただいています。余談になりますが、この松本先生の講座の内容が、かつて江橋所長が語っていたことと見事に重なり、講義を聞きながら、20代に経験した貴重な時間に思いを馳せてしまうこともあります。

いつか必ず一緒にやりましょう!

さて、話を大子の名匠・菊池さんに戻しますが、心の師匠と慕いつつ、じつは私はまだ菊池さんと同じ現場で仕事をしたことがありません。それは、なぜか。現場では建築士と大工職人の立場に分かれるため、互いに譲らず衝突することがわかっているからです(笑)。
 それでも、私の知る限り最上級の知識と腕を持つ尊敬する職人さんですから、一生のうち一度は、同じ現場で仕事をして、必ず素晴らしい建物を完成させたいと願っています。そのうちきっとやりましょう、菊池さん!

自ら作業の手本を示す菊池さん

自ら作業の手本を示す菊池さん(右端)

施主と建築士の理想の関係。

不必要な〝常識〞も中にはある

もし、建築士によりよい仕事をさせたいと思ったら、ご自分のご希望や目的を簡潔に伝え、あとは信頼してまかせてみるのがいいでしょう。その建築士は建築のプロとして持てる力のすべてを結集し、お客さまをあっと驚かせるようなプランを提案するはずですから。
 以前、お客さまとの間でこんなことがありました。
 ある校長先生のお宅の設計を担当したときのこと。互いに信頼し合う仲だったのですが、初回の提案の場を迎えると、いきなり場が凍りつく事態となりました。私の提案がお客さまの考えを大きく裏切る内容だったようで、目にした途端、その方は唖然とした表情を浮かべ、テーブルをひっくり返すような勢いで怒りだしました。
 奇をてらったわけでもなく、私にとってはオーソドックスな住宅のプランでした。ただ、その方の考える常識に沿っていなかったのです。内心﹁まずいな﹂と思いながらも、こちらも全力で考え抜いたプランですから、いかにお客さまの希望に則したプランとなっているか、その理由を一つひとつ説明して、その場は引き上げました。

お客さまの想像を越えてこそプロ

後日、共通の知人である大工職人をそのお客さまが訪ねてこう伝えたそうです。「あいつの頭は柔らかいんだな。今まで自分が当たり前と思っていたことを全部ひっくり返したうえで、自分の目的をかなえる家になっている」と。
 結局、そのお客さまには、その後どこも手直しすることなく、初回提案を採用していただきました。
 少し極端な例をお話ししましたが、お客さまの想像を越える仕事をすること、それが、建築のプロとしての自分の使命であると、私はつねに考えています。

水戸城大手門の復元事業のこと。

文建協の皆さんとの嬉しい出会い

今、私は、水戸市が推進している、「水戸城大手門、二の丸角櫓(すみやぐら)、土塀等復元整備工事」に携わっています。事業に関わり始めてかれこれ3年以上になります。
 復元事業の実務を主導するのは、公益財団法人文化財建造物保存技術協会(以下、文建協)で、これまでにいくつもの国宝や重要文化財の建造物の修理、復元を手掛けてきた組織です。東日本大震災で被災した弘道館の復旧も、この文建協が手掛けました。
 そして、私の役目はというと、地元の事務所として文建協の活動を細やかかつ迅速にサポートすること。
 当初、市の担当者からこの話を打診されたときには、たいへんな嬉しさと同時に「そんな大役が果たせるのか?」という不安が押し寄せ、迷いました。が、結果的には嬉しさが勝ちお引き受けすることに。「大丈夫、私には江橋所長から叩きこまれた木造建築の基礎がある!」と自分に言い聞かせて。
 文建協の皆さんは、本当に超がつくほど優秀な方々で、プロジェクト発足時にはたいそう緊張しましたが、木造建築の話になると、意外なほどスムーズに話をすることができました。

新たなまちのシンボルとなる

わずか2枚の写真を手掛かりに、土地の状態や出土した品から建物の各寸法を割り出し、巨大な柱や瓦、鯱鉾(しゃちほこ)を再現して、大手門・角櫓、土塀などを復元する事業。彼らと各地に出向き、初めての体験を重ね、そのたびに膨大な知識を授けてもらいました。今でも彼らと会って建築の話をするのが楽しくて仕方がないです。
 今後、大手門が完成し、続いて二の丸角櫓も完成すれば、水戸駅からもその姿が望める新たなまちのシンボルとなります。その姿を、今までお世話になった施主の皆さま、師匠や仕事仲間たちに、早くお見せしたいなと思っています。

巨大な柱は小美玉市で加工、鯱鉾は愛知まで足を延ばして制作しました。

木と会話をしながら、いつまでもよい建物を
つくり続けていきたいと思っています。